七條紙商事株式会社

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― 先代が紡ぐ ―私の履歴書

先代(三代目)社長の七條達一が書き記した、弊社の歴史物語の一部をご紹介いたします。

七星担当の佐久間さんに毎月原稿を頼まれて、なかなか毎月書くのも骨の折れる事です。
 今日も日経新聞連載の、私の履歴書を読んでいるうちに、ふと、私自身の履歴書を書いてみようかと思いつき、七星に書いてみる事にしました。
 日経の私の履歴書は、日経新聞の練達の記者が履歴を語るご本人の言葉を立派な文章に直して記載しますから、文章も構文も立派なものが出来ていますが、私のは文字通り「私の履歴書」で、文章も余りうまくありませんが、思ったままを書いて見ようと思いますのでお許しください。
 私は大正七年六月三日、父「正一」と母「光子」との間の長男として、東京市日本橋区米沢町米沢町(よねざわちょう)起立:1698年(元禄11年)、廃止:1971年(昭和46年)年3月31日。町名は「米蔵の跡地」の意。三丁目四番地(現在の中央区東日本橋二丁目二十番地)で呱呱の声を上げました。
 但し、当時の七條洋紙店は、現在の南向きではなく、堀津さん(お茶屋さん)や久東さんの辺りが玄関で北向きの木造二階建の社屋でした。
 此の通りは、江戸時代から続いた賑やかな通りで、通りを隔てた前の店は、江戸時代から続いた「村田きせる店」でした。角には立花屋菓子店(現在は東京レベル印刷)。又、村田さんの隣りは梅園しるこや、銭湯の清水湯などが並び、先の方にも両側にたくさん小売店が並んで居りました。
 現在の本社の前の通りは無く、堀割が隅田川から真直ぐ入っており、千代田小学校1877年(明治10年)創立、1945年(昭和20年)廃校。現、中央区立日本橋中学校。(現在の区立四中)には橋を渡って登校したものです。この堀が薬研堀隅田川より東日本橋二丁目10番地の中央区立日本橋中学校内を南西に直進し、9番地で北西に折れ、一丁目に至った。堀底の形状がV字型であり、薬研の窪みに似ていることに由来する。1903年(明治36年)薬研堀が完全に埋め立てられる。につながって居りました。
 現在は出産の時は病院へ入院して出産しますが、当時は皆自分の家で、産婆さんに来てもらって出産しますから私は文字通り出生地と本籍地が同じです。当時は第一次大戦の時代で好景気に沸いた時代でした。
 手許の資料を見ると、前年の父母の結婚式の費用に二千七百六十二円支出して居り、又、私の出産の際に私の為に千円の預金をした記録が残って居ります。現在の物価と比較してどの位になるか判りませんが相当の金額である事は間違いありません。
 祖父は、明治二十五年にそれまでの家業である染料問屋をやめて紙屋を始めました。十月に開業したという記録がありますが何日であったかは判りません。
 七條家は、代々阿波(徳島県)小松島市徳島県のおよそ東部中央、紀伊水道沿岸に位置する市である。市の中心地は徳島小松島港付近であり、四国地方の東側の玄関口として江戸時代は藍や生活必需品の運搬拠点。に本店を置き、江戸と館山千葉県の南部に位置する市。(千葉県)に支店173醤油酢醸造家 七條彦四郎を待つ藍(染料)の豪商でした。藍は阿波の特産品で藩の大きな財政収入になって居り、販売管理は厳格に出来ていました。
 今でいうカルテルであって、日本中の販売地域が定まって居り他所の地域に売る事は出来ません。七條家(苗字帯刀を許されて居た)のテリトリーは、武蔵(江戸)、相模、安房、上総、下総でしたから、現在の東京、神奈川、埼玉、千葉の各県であり、業界の大手であった事は間違いありません。
 江戸の店は、鉄砲州(中央区)当りにあったようですが、その場所は現在はっきりしません。館山の店には、いろは四十八蔵あったといわれ、染料ばかりではなく醤油などもあつかったようです。その場所は、本社の佐久間栄次君が一度古老をたづねて確認して居り、僅かに当時の堀の跡があるやに聞いて居ります。
 手許の過去帳によると、元禄十四年に初代重兵衛が八十二才で亡くなって居ますので、その時から数えれば三百年近い伝統があります。

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(私の履歴書というより、我が家の履歴書を少し書いて見たいと思います)

藍は、阿波(徳島県)の特産であり、蜂須賀藩阿波と淡路両国を領した大藩で、吉野川流域に産する阿波藍は全国に市場をもち、元禄期以降は江戸にも及ぶ規模で藩最大の特産品となる。は、藍の販売を免許制にして販売統制をして居りましたから、藩の財政に大きく寄与して居りました。
 前にも述べました通り厳格な販売地域カルテルを結んで居り、我が家も関東地域以外には売る事は出来ません。お陰で、代々裕福に暮らし地方の豪商だったようです。
 処が、明治になって外国から色々染料が入る様になり、又、藍も印度から安いものが入って来るようになりました。長い間、藩のカルテルを頼みに安穏としていた地方産業は大打撃を蒙りました。この時代の経営者の対応の良否が経営に決定的な打撃を与えました。
 今日でも、染料の大手の「森六」「西野」「三木」各社は、何れも徳島の出身で業界の重鎮として活躍して居りますが、残念乍ら染料業界に七條の名はありません。
 明治時代の各社の当主の経営感覚の優劣がその結果を明らかにしたわけです。手許の系図を見ると、初代、二代は重兵衛といい、三代、四代は六右衛門と称したようです。尤もこの系図は文久年代にまとめたもので、その後の経過が詳らかでありませんが、七代目七條彦四郎は七條家に養子に入り、妻との間に男子がなく娘四人を産みました。
 長女に浜二を養子に迎え、二女、三女は夫々天羽・後藤田家に嫁して、四女に佐市郎を仙石家から養子に迎えました。明治の前半で大きな経済変動を迎え、その対応が難しい時でしたが、養子浜二は俳人、茶人で商売にあまり向かずのんびりして居た様です。
 四女の養子佐市郎は、働き者で兄と一緒にしていたら共倒れになると思い、明治二十五年周囲の反対を押して、全財産を処分し、兄と別れて親子五人で上京したわけです。いくら七條家が業績が悪くなったとはいえ、まだ立派に商売をしていた時に、養子が財産を処分して上京したのですから周囲の親類知人から随分非難されました。
 佐市郎(祖父)は、幸に東京の支店に度々来て居りましたので、或る程度の地理も知っていました。
 明治二十五年の春に上京し、最初は本所に仮り住居をしましたが、その年の十月には何の経験もない紙屋を現在地で開業しました。
 当初から洋紙、和紙を扱わず板紙を主に扱いました。板紙は荷車に積んでも重く金額は張りませんので嫌がれます。祖父は、はやりすたりの無い、人が嫌がる事をする事が成功する秘訣と考え板紙に着目したわけです。
 手許の資料によると、明治二十六年度((第一期)の損金が四六二円。翌二十七年度は一一二円の赤字に了り、第三期は三六円の黒字でしたが、第四期(明治二十九年度)は、又三一〇円の赤字になって居ります。その翌年からはずっと黒字になって居りますが、初期の頃の祖父の苦労が思いやられます。
 紙の業界は、全く経験なく親類には見放され、子供三人を抱えてさぞ大変だった事と思います。従って、私は七條佐市郎を初代と考え、私自身父正一を経て三代目と考えて居ります。
 七條浜二には又、男子が無く娘四人が出来ました。三人は夫々嫁ぎ、長女の「はじめ」に養子文三を迎えました。文三も又、時代に対応した経営能力が無く、さしもの七條の財産も昭和の始めには全く無くなり、夫婦は又も男子は無く娘二人を連れて上京して参りましたが、戦前に夫婦もやがて亡くなり(文三、昭和八年、四十九才)。娘二人が残りましたが、姉は早く亡くなり妹の「ユタカ」一人が残りましたが、婚期を逸した為、現在世田ヶ谷で一人で住んで居ります。従って、七條家は私が本家を含めて継いで行かねばなりません。
 四国八十八ケ所の寺の一つ、小松島市の地蔵寺徳島県小松島市松島町にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は國伝山。本尊は地蔵菩薩。の本堂正面に寺の墓地とは離れて七條家代々の墓が据って居ります。当時の七條がいかに寺にとって大事な檀家であったかが偲ばれます。
 七條家の屋敷のあとは、現在小松島市の中田小学校中田小学校(ちゅうでんしょうがっこう)は、1879(明治12年)年10月に創立。現、小松島市立千代小学校。になって居り、敷地の広さが想像されます。
 尚、祖父がまだ上京する前に、つまり明治二十年頃は、娘達は学校へ人力車で通い、弁当は特別に家から届けられ娘達だけ教員室で先生と一緒に弁当を食べたという話を娘の一人蔵本ますみから聞いた事があります。私自身半信半疑でしたが、本人がいうのですから本当だったのかも知れません。
 佐市郎も最初の子供二人は娘でしたが、三人目に始めて男子(正一)が生まれました。正一は明治二十五年二月に産まれていますので、全くの乳のみ児を連れて祖父は上京した訳です。
 佐市郎の妻たつ(私の祖母)は、明治三十年七月二十一日に子供三人を残して亡くなり、祖父は娘二人が成長する迄、独り身で居りました。
 そのうち、上の娘すみは蔵本俊次郎に嫁ぎ、下の娘も大正時代に入って、杉森孝次郎に嫁ぎ、家に娘達が居なくなったあと後妻として古幾を迎えた訳です。古幾は、大変長命で数年前迄元気で居り百一才迄生き、昭和五十八年に亡くなりました。
 すみの嫁いだ蔵本俊次郎は、三田(慶應義塾)出の秀才で、白木屋百貨店(現在の日本橋東急の場所)に入社し、神戸支店長から本店総務部長となり、丁度昭和の初期の不景気の時の人員整理の責任者となり、整理が了った時、自らも潔良く退社してしまいました。若い頃(明治の終り頃?)ロンドンに滞在した事もありなかなか進歩的な人でした。
 次女はなは、お茶の水の女子高等師範(お茶の水大学)を出て、しばらく教師をしていましたが、当時の早稲田大学の少壮助教授、杉本孝次郎に嫁ぎ、戦後迄仲の良い夫婦でした。杉本は戦前の早大の名物教授で学生にも人気があり、中央公論などに屡々難解な論文を書いて居りました。
 又、佐市郎と古幾との間には一男一女が生れ、兄の祐三は、北海道大学の理学部を出て電々公社の通信研究所から、後に住友特殊金属の専務を得て数年前に退社し、その後子会社の社長を経て、現在は自適して居りますので、昨年から当社の監査役をお願いして居る理学博士です。
 妹の周子は、中瀬義武に嫁ぎ、娘四人を育てて、現在阿佐ヶ谷に居ります。中瀬は一橋を出て、日本化薬に入り将来を期待されて居りましたが、十数年前に亡くなり、周子は娘四人を女手一人で育て大変苦労しました。

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前に述べた様に明治時代の配達は荷車を引いて得意先へ届けました。
 大八車の前と後にボール紙を積んでバランスを取り肩に引き綱を掛けて荷車を引いたものです。平地を歩く時は良いのですが、少し坂道となると大変力が要り一人では荷車を引けません。
 当時は、九段坂の下などに「立ちん坊」と称する荷車の押し手が居て、坂の上迄押し上げて何銭かの報酬を得る職業がありました。
 両国橋の袂の両国公園(現在の江戸政や大木唐辛子店の辺り)の附近にはやはり何人かの立ちん坊が居て、両国橋を渡る車を押して居たのを見た記憶があります。
 当社でも、倉庫係の人が荷車を引きましたが、当社で荷車で配達をした最後の人が戦後屡らく当社に在社した井村です。
 関東大震災直後に倉庫要員として当社に入りました。やはり、最初は荷車を引いていましたが、やがてオート三輪車やトラックが配達の主力となり、昭和の初期には荷車は無くなり、倉庫番として荷物の出入庫を担当しました。
 尚、メーカーからの配達は殆んど馬車によるもので、一度何トン運んだか判りませんが、倉庫の前に馬糞やボール紙のあて紙が散らばっていました。

ここで我が国の板紙の歴史を簡単に述べて見ましょう。

我が国の板紙は、明治二十年、東京千住に資本金十七万円で設立された「東京板紙会社」1886年(明治19年)10月設立。1920(大正9)年2月に富士製紙に買収・合併され、1933(昭和8)年5月に王子製紙、樺太工業の3社が合併し、王子製紙が新たに誕生。戦後には千住製紙と改称、1983(昭和58)年十條板紙(現、日本製紙)に合併されて、翌年に移転し、工場は閉鎖。板紙発祥の地:東京都荒川区南千住6丁目37が、英国より機械を輸入して始めて稲藁を原料とする板紙を抄造したのが最初です。同社の生産は、明治二十年に二八〇噸、明治二十二年七〇一噸、同二十四年に一六四五噸生産されました。

当時の板紙は、MPで八オンスで噸三十六円五十銭、十オンス以上は噸四十円五十銭と言われています。
 当時としては大きな収益をあげていましたが、富士製紙が入山瀬に円網の板紙マシーンを設立して、板紙の生産に入った為、忽ち市況は暴落して泥試合となりました。
 その解決策として、日本板紙販売合資会社が明治二十八年三月設立され、両社の板紙の一手販売を始めました。これが我が国の板紙の自主統制の始まりです。
 この時から約百年、日本の板紙は乱売、競争、カルテルの循環を今日迄続けているわけです。
 その後、明治三十年を境に西日本に、西成、美作、広島の板紙メーカーが発足して再び乱売となり、先の統制会社と合わせて五社の日本洋紙合資会社が出来ましたが、日露戦争後の好況時に、岡山製紙、山陽板紙、北越製紙が新しく開業し、黄板紙の生産量は従来の倍の二五〇〇噸に達し、在庫が忽ち増えて、日本洋紙合資会社の在庫が五〇〇〇噸に達しました。
 その結果、黄板の販売はますます激しくなり、明治四十二年一月ごろ噸六十円が三月には噸四十円迄下がりました。
今でこそ黄板の生産は僅かですが、当時は現在の様なチップボールなど無く、稲わらから製産される黄板紙が主力製品でした。
 そこで各社は再び日本板紙共同販売所を作り、共同販売所は過剰分は極力輸出に向け国内の価格維持に力をむけました。
 当時の六社は富士製紙、東京板紙、西成製紙、北越製紙、岡山製紙、美作製紙の六社ですが、これ等の各社と当社との取引がいつごろから始められたかは明らかではありません。
 尚、この共販会社も大正初期にアウトサイダーが激増し、又、大巾な増設が行はれた結果、共販会社はその力を失い、大正二年十一月その機能を停止し、大正四年夏には遂に一噸三十三円迄暴落し工場の閉鎖休止が相次ぎました。
 我々は現在の段ボール原紙の市況を見て、今から七十年前の板紙業界と同じ事を繰り返している事を痛感せざるを得ません。

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第一次欧州大戦1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国との間で繰り広げられた。7000万以上の軍人(ヨーロッパ人は6000万)が動員された史上最大の戦争の一つ(第一次世界大戦)。は、大正三年七月二十八日オーストリアの対セルビア宣戦に始まり、急速にその規模を拡大し、我が国も日英同盟を結んで居た為に、大正三年八月二十三日対ドイツに宣戦を布告しました。
 前に述べた様に当時の板紙市況は大不況であり、黄板紙がトン三十三円迄値下がりした時期でしたが、当時の見通しとしては戦争は短期で了る見込みであり、その間、輸入材料が途絶して困難を堅忍持久すべきであると云われ、一般の景気は極めて不況でした。
 当時の雑誌、新聞によっても、開戦二~三カ月は紙の市況は軟化し、全般に不況であると報じられて居ります。然し乍ら戦争が意外に長引き、東南アジア諸国がヨーロッパ諸国からの輸入が途絶え、我が国からの輸出が急増するに及び大正四年の半ば頃から景気は急速に回復して参りました。
 板紙の市況も、大正四年夏を底にして徐々に上向きとなり、翌五年五月頃はトン五〇円迄回復しました。
 ところが戦争は終わるどころか、大正六年、七年と長期化するに及び、市況は文字通り狂騰して遂にトン当たり一八〇円迄上り、茶ボールが二三〇円、白ボールが二七〇円を唱えました。
 尚、この様な状況は板紙ばかりでなく、洋紙も和紙も何れも暴騰し、大正六年九月に発令された暴利取締会の第五項目目に紙類が入れられた事も当然であったかと思われます。
 第一次大戦は、大正七年十一月十一日休戦条約成立となり、ドイツが敗北しました。その結果、我が国の経済界も大きな影響を受け不況の様相を呈して参りました。
 紙業界も、大阪の北洋紙店の整理などがあり、紙の市況も休戦ショックで一時的に暴落致しました。
 然し乍ら休戦ショックは半年位で収まり、むしろ欧州諸国は戦後の復興景気が始まり、我が国の国際収支も大巾に改善され再び好景気が訪れて参りました。
 紙業界も再び活況を呈しましたが、この期間は短く、大正九年三月十五日の東京株式市場の大暴落をきっかけに商品市況は大暴落となり、経済界は恐慌状態になりました。紙業界も大きな影響を受け、大阪・名古屋の有力紙商数社が整理に入ったのもその頃です。
 私の産まれた日が大正七年六月三日ですから当社の最も景気の良い時代に生まれた訳ですが、当然の事乍ら当時の記憶は全くありません。
 明治時代の当社の番頭は、中田直平が筆頭番頭で祖父を助けて居りましたが、独立して浅草橋交差点の角に、中田イーグルノートを始めた為に、大正時代は三須峯松が番頭として祖父を扶けて居りました。営業手腕もあり、当時の好景気に乗じて当社の業績を大いに伸ばしましたが、大正十一年頃に当社を退社して居ります。
 理由は良く判りませんが、不況に突入した時の積極策が、私の父と意見が合わなかったからではないでしょうか。然し、第二次大戦後再び私に協力し、三昭段ボール㈱を設立し初代社長になり、又、当社監査役として当社の戦後の復興に協力しました。
 大正十一年三須が退社後は、小川千之助が筆頭番頭となり、杉山、入江、湯川、大河原などが活躍して居りました。
 第二次大戦後、昭和三、四十年代に当社の役員として活躍した。寺尾長造、岩崎要造、渡辺政治など、何れもその頃入社した若手社員でした。

次回配信に続く

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